彼女は「ゆで卵」が大好きだった。
それはもう一度言えば大好きだった。
それは大好きな時期があったり、そうでない時期があったり、あるいはその中間であったり、特に季節に変わり目となる春や秋はその曖昧な答えが帰ってきたこともあるけれど、概ねそれは大好きと定義しても差し支えないほどの「ゆで卵」への執着だった。
僕は彼女のために来る日も来る日も「ゆで卵」を茹で続けた。
スーパーの特売日にありったけの卵を買い、たまに余裕のある時はブランド品の卵を買い足早に家に戻り、夢中になってゆで卵を茹で続けた。
雪の降るとても寒い日だった。
冷たい風が北から吹き付けて、地面は白く雪で覆われていた。
その日は朝からLサイズの卵が10個で198円だった。
僕は、いてもたってもいられなくなって寒い朝からスーパーの入り口に並んだ。
手が冷たいのでブルソンのポケットに手を深々と突っ込んで開店の時間を待った。
ちょうど、開店の時間の2分前に彼女からのメール着信音がした。
「今日は、ゆで卵の気分じゃないの、悪いけど。」
僕はそのメールの本文をみるとなんだか空気の抜けた自転車のタイヤのように、
重く役に立たない思い出が肩にのしかかるような重みを感じた。
開店後、2パックの卵を買って家に戻って軽いため息を付きながら鍋に湯を沸かした。
ちょうど水が沸騰するころ、電話が鳴った。
「なんだか急にゆで卵にヒマラヤのピンク岩塩をかけてありったけの卵を食べたいの。」
彼女は19時には僕の家に行くと行って電話を切った。
僕は何かに取り憑かれたように再びスーパーに戻り5パックのゆで卵と、350mLのビールを6缶買った。
車を飛ばして家に戻り彼女がくる19時までにできるだけたくさんのゆで卵を茹でたかった。卵を茹でている最中、何度か電話が鳴ったが僕は夢中になって卵を茹でていた。
それでも掛け時計の時間が19時を回っても20時を回っても彼女は僕の家にには来なかった。
「彼女はどこか違う場所に行ってしまった」
僕はソファーに座って横目で茹で上げた「ゆで卵」をみながら、
納税の目的の考察した。
彼女のいない積み上がったゆで卵はとても役に立たなくてそれでいて無作為に
存在していた。
この卵はどこから来たのだろう。
きっと僕が知らない森で多くの雪が降り、僕の知らない畑にも多くの雪が積もっている。
池の水は表面が氷り、家の軒先には氷柱が垂れ下がる。
空気は乾燥して澄んでいる。澄んだ空気の空を鳥が群れをなして飛んでいく。
どこかの知らない場所で、どこかの知らない誰かが産みたての卵を出荷している。
それが全部ふるさとのせいだとは言えないのだけれど。